エルエルロック

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地の塩
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幻惑奇音譚

まぼろしの声・・・消費されるその前に

「通底」と言う意味においては、日本の文化と西洋のそれとは根本的に異なるように感じる。それとも「通好み」な御仁がいて、その人がたまたまメディアと言われる場所で情報を発信できる立場にいて、もしくは自国以外の文化・文明を紹介できうることが出来たからかもしれない。

図書館の意義とは、自国の歴史を後世に残す、という西洋「国家論」が出典であることは自明である。そもそも西洋とは、一般大衆までもそのような一部の人智に秀でた人の教えをうやうやしく尊んでいるのだろうか。

一体何を書いているのかわからなくなってきたが(博学ではないのだよ)、どうも西洋音楽(文化)は「過去の遺産」が脈々と受け継がれているという印象をとても以前から抱いているのであって、果たしてそれは真実か、ということなのだ。

歪曲されている気はするのだけれども、ね。

40年前と言えば、遙かに過去のことであって、そのころのロックが平気で再発され、きちんとカタログも残されている。果たして日本はどうか、と言えば、確かにCD化のおかげで一部好き者の間では再発CDがもてはやされ、それなりのセールスも記録している、と聞く。しかしそれはここ数年来のことだ。しかも、ほんの一部の人たちの努力(酔狂)があってのことである。

日本って、ブームが終わるとその時々の作品は当然のように「破棄」される。西洋なみのカタログ化という意識(是非は別)はどこにいっても見られない気がする。「美空ひばり」なんて演歌のコーナーにある。西洋なみの配置ならば通常の「Jポップ」の棚にあるはずである。

でも演歌だし、懐メロだし。

それにしては、今の「流行歌」は未だに「流行歌」メロ満載。なんなのだろうか。

最初GSにはとても抵抗があったのだが、「カルトGSコレクション」として曲を聴くと、これが素直なロック(ガレージパンクorサイケデリック)であって、そうなると、日本の60年代音楽を聴かずにはおれない。すると、今までの自分の聴き方を恥じる体験を何度もすることになった。

和モノDJたちの貢献は大きい。どんどん発掘してそれが結構かっこいい。

一般に再評価されたのは「和田アキ子」だろう。しかしそれは今でも現役で活躍しているからこそ。とてもじゃないが、その他は再評価も一部分でしかなかった様子である。結局当時の歌手がたまにTVに出演しても「懐かしのなんとか」に過ぎないのであって、ゴールデン・カップスが再結成して、去年からライブをやっていることは、やはり知られていない。

TV局のインタビュー中に「てめえぶっ殺してやる」と言ってナイフを持ってきたバンドだぞ。

歌手と言えば歌が上手いのは当たり前であって、今は歌が上手いと「上手いねぇ」と言われる時代からすると、なんか信じられない。僕にしても、60年代の楽曲を聴いて、なんて上手いんだ、と腰が抜けた人間である。その程度である。

朱里エイコさんの曲を聴いたのは、「キューティ・ポップ・コレクション」に収録されていた「まぼろしの声」が最初だった。今、こんなに重いグルーヴの曲はでないよな、と感じた。それ以上に「歌のうまさ」に驚愕した。

ハスキーな声の印象というのが、多分間違ってはいたのだろう、高域が出しづらい、というものだった。しかし、朱里エイコさんは違っていた。ハスキーなボイスのまま、高域を自由にコントロールできる。ハスキーなままで高域が伸びる、と言った方が適切かもしれない。また70年代のTowerOfPowerとの共演も、スケールの大きさを感じさせてくれた。ヒット曲と言えば「北国行きで」のみなのだが、これもよくできた歌謡曲で非常にグルーヴィである。歌謡曲でかっこいい、と思える少ない歌手の一人だ。

今朝、朱里エイコさんの死去をニュースで知った。

芸術家の生涯には「死」や「孤独」ということがつきまとう。「死」や「孤独」を常に意識しながらの人もいれば、結果的に「死」を常に傍らに置き、「孤独」を選ぶ人もいる。まあ、芸術家がとても人当たりよく、和気あいあいとした性格だなんてちょっと似合わないし、ね。「不遇」いうのもつきまとうだろう。

(未了)

幻惑奇音譚「まぼろしの声・・・消費されるその前に」終わり

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