微小潮流
幻惑奇音譚
ある無骨者の死・・・ジョー・ストラマーの死に寄せて
今まで「クラッシュ」をかっこいいと思ったことが2回ある。
最初は高校生の時だった。それは、クラッシュの音がよかったのではなく、ジョー・ストラマーの発言や生き方・考え方に共鳴したからだった。今となっては、彼のどういう部分に共鳴したのか、思い出せない。心の中に残っているのはただ「共鳴できた」という事実のみである。
2回目は大学に入ってから、のことだ。次から次へと店舗の変わる西新宿で、すでに今はない中古レコード屋に入ったら、突然「クラッシュ」がかかった。しかも大音響で、だ。たしかCDの2枚組ベストの1枚目だった、と思う。実は、クラッシュのアルバムは、僕がまともに聞いたのは「ロンドン・コーリング」のみで、あとは「白い暴動」も2枚目もまともに聞いてはいない。だから余計新鮮だったのだろうか。
クラッシュは、まがいもなくロックンロールだし、それ以上でもなかった。パンク・ロックでありながら、ロックンロールの公式に100%はまった音。純粋無垢のロック魂。それは、余りにもストイックすぎる。
僕がロックを意識したのは、すでにパンク・ロックの波がなくなった78〜79年ごろのことである。時代は「ニュー・ウェーブ」で、ディーボの方が過激だった。YMOやプラスティックスが海外で成功始めた時期だった。その後僕はパンク・ロックを聞き始めたが、クラッシュではなくセックス・ピストルズだったし、日本ならばアナーキーよりもスターリンの方が好きだった。
ロッキング・オンで、ジョー・ストラマーのインタビューを何度か読んだ。かっこいい、単純にそう思った。はるかな理想を追い続ける、戦士の発言。そのように感じた(あくまでも、そう感じたと憶えているに過ぎない)。
ロック、であること、それはいったいどういうことを言うのだろう。
90年代、セックス・ピストルズは「金が欲しくて」再結成をし、僕は「日本武道館」に「コンサート」に行った。でぶでぶのジョニー・ロットンはぶざまだったし、肥えまくって「安岡力也」そっくりのスティーブン・ジョーンズの勇姿は、とてつもなくかっこいい(あのギターを抱えてのジャンプの完成された芸っぷりときたら!)。ジョニー・ロットンは言う「これがお前らの見たかったものだろう!金を稼がせてくれてありがとうよ」と。
セックス・ピストルズは「芸能」集団だ。だが、パンク・ロックという意匠はあくまでも芸であり、精神でも魂でもない。芸だったからこそ、POPだったからこそ、今の今まで形式が残り続けている。残酷なようだが、ファッション、というものはそういうものだ。「社会に受け入れられる」ということが前提で、その前提あっての「革命」なのだから。
ジョー・ストラマーもまた「ぶざま」だった。ロックであり続けよう、とするその純粋さ、生真面目さがぶざまだった。だからこそ、逆に深い共感も得ていたのだし、はじめから冗談で受け止められるセックス・ピストルズと違い、真剣みと危険さを常にはらんでいた。さりとて僕は、90年代の彼の動向を余り気にすることもなかった。97年のフジ・ロックに出演したことぐらいしか記憶にない。ただ、地道に「ロック」している、という印象しかないんだ。
僕が10代の時、ロックに何を求めていただろう。ロック少年にとって「ロックとは何か」と思う時、ジョー・ストラマーの姿が思い出される。ロックに生き、ロックに死ぬ。その意味を考えてしまう。
「ロック」という名の精神には、涙も賛美も同情も要らない。
パンク・ロックがロックの葬送曲だったとしたら、ジョー・ストラマーの死はまがいもなく「ロックそのももの死」を意味する。
幻惑奇音譚「ある無骨者の死・・・ジョー・ストラマーの死に寄せて」終わり
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