エルエルロック

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幻惑奇音譚

「キャロル」というロック・・・風俗と音楽性の狭間で

「キャロル」、これほど風俗的に有名になったロックバンドはかつてない。

高校生の時、矢沢永吉が嫌いだった。余りにもイメージ性が強く、特定の人間に支持されるという構図が嫌いだった。その思いと反してキャロルは好きだった。内海氏のギターを僕は何曲コピーしたか思い出せない。そしてジョニー大倉氏のあの甘い声も好きだった。このバンドが特定の人間だけに支持されている、とは思いたくなかった。

余りにもロックだったからだ。日本という土壌を感じさせない「ロック」という感覚。「日本のロックは『R』のロックじゃなくて『L』のロックだ」という大倉氏の有名なセリフにも、ロックと正面切った潔さを感じたのだった。

「キャロル」、これほど誤解されているバンドは、かつてない。

友人に「ラスト・ライブ」のビデオを見せてもらったことがある。もう15年も前のことだ。いきなりのバイクには参ってしまったが、ステージの4人の佇まいに、僕はビートルズを想起した。

キャバーンやハンブルグでのビートルズは、単なる不良のヒルビリー・バンドだった。荒っぽい客との喧嘩や、覚せい剤漬けの日々。キャロルはビートルズを目指したのだし(すいません、資料がないので記憶だけです)、曲調は余りにもメロディアスだ。内海氏のギターはキャロルじゃなかったら何をやったのだろう、と思うくらいに「泣き」の入ったギタープレイだ。矢沢氏のベースはもう完全にポール・マッカートニーのスタイルだ。

「作詞・・・ジョニー大倉」「作曲・・・矢沢永吉」は、レノン=マッカートニーに匹敵する才能だ、ということは余りに知られていない。

この時代の日本のロックバンドは、今でこそCDというフォーマットで復活はしているが、本当に「才能」として評価されているのだろうか、疑問に思うことがある。活動を続けてきたロッカー、例えばパンタ氏などは昔から評価は定まっているが、果たして他の、その時代と共に寝たような人たちはどうだろうか。評価されたらされたで、例えば早川義夫氏のようなカルトな様相を帯びてしまう。

キャロルの曲群は、実はラスト・ライブ以外はCD化されてから聴いたのだった。ライブに入っていない曲群が、歌詞・曲共に整合性や品位を保ったものだった、ということを知り、矢沢氏の作曲の才能にうならされたものだった。余りにも有名人だからだろうか、実はこの人は、十分歴史に残る作曲家の一人であることは疑いないのに、誰も何にも言わない。僕が気づかないだけだろうか。

邦楽・洋楽の壁など彼らの曲にはない。

いつだっただろうか、内海、ジョニー大倉両氏の「ギターマガジン」でのインタビューを読んだ。バイクなんか乗ってないのに、あんな写真ばかり撮らされて参った、とか、周りが「族」ばかりで怖かった、とか言ってたな。(記憶が定かではないです、念のため)革ジャンスタイル(1番最初はGジャン上下だったが)だって、何か強烈なイメージで行こう、という戦略で(自分たちで考えて)、原宿あたりで買い揃えたのだそうだ。それまでは、マッシュルーム・カットにベルボトムだったとか。

でも、それがぴったりはまるのだから、世の中わからない。「カンサイ・イン・パリス」に出演もしてるし。

新ベストのCDを捜して、回収だったとは知らずに都内中を回っていた。おまけの初回限定のDVDが欲しかったのだ。どこに行ってもCDはなく、疲れて入った某CD店で「回収のため31日に延期」の告知が新ベスト用のポスターに貼られてあった。そのポスターのかっこいいこと、ときたら。どこの事務所にも入っていなく、キャバレーで演奏をしていた名も知れない薄汚いロック・バンドの販促用ポスターが、これだなんて。

「キャロル」、これほどビジュアルが決まるバンドは、かつてない。

そして恐らくこの先も、多分でてはこないだろう。

幻惑奇音譚「「キャロル」というロック・・・風俗と音楽性の狭間で」終わり

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